最近うちの界隈で、ひったくりが頻発しています。
手口が相当荒っぽく、歩道にバイクを乗り上げて
被害者を引きずって大怪我させる、なんてことが
多発し、夕方過ぎるとお巡りさんやパトカーを
しょっちゅう見掛けます。
仕事帰り、いつもは徒歩なのですが
こんな状況に周囲から「帰りだけでもバスに乗れ」と
散々言われているため、最近ではバスで帰宅する日もあります。
仕事終わりでポーっとしていると自分の下車予定地に気付かず、
「降りますボタン」を押し忘れてしまうことが
たまぁ~にあるもので、二つ手前位から「押さなくてわっ!」と
心構えをしたりします。
つい先日もそんな感じで乗車していたところ
小さな子供連れの方が途中から乗車されました。
幼稚園くらいの男の子だったのですが、
彼は座席に座るや否や、ボタンに人差し指をセットし
「いつでもスタンバイOK」状態に入りました。
彼はお母さんの顔を真剣な、キラキラした瞳で見つめ
そのGOサインをひたすら待っています。
お母さんは「まだよ、まだよ」と
たしなめ続けています。
そういえば、子供の頃そうだったなぁ~。
あのボタンが押したくて押したくて仕方がなかった。
誰かに先に押されちゃえば、二度とはピンポーンと
鳴ってはくれないボタン。
チャンスは1度しかない。
誰よりも早く押さなければいけない。
たまに、子供同士が乗り合わせると
そりゃもう、戦いです。天下分け目です。
関が原のデジャブです。
この際、目的地が同じかどうかなんて
重要はありません(いや、重要だ)
全神経を指先に集中させ、ひたすら
母が頷くその時を待ちわびる、
(ある意味)神風精神です。
一番前の席で姿勢を正し、お母さんの合図を待つ
男の子を懐かしく、微笑ましく眺めながら考えていました。
どうして、子供にとってこのボタンは
そんなに重要なことなんだろう?
明日バスに乗れば又チャンスは廻ってくるのに、
どうして今日の・今この時のボタンに
こんなに熱くなるんだろう?
子供にとって『今』がその人生の全てなんだろうなぁ。
大人達は、知っている。
子供には明日があってその先も無限にあって
それが現実であり当たり前のことだということを。
でも子供の時、大人達が口にする「未来」ほど
当てにならない、予想もつかない漠然としたものは
他になかったかもしれない。
『今』しかないから夢中になれて
『今』しかないから逃すわけにいかない
子供の目の前には、そんなチャンスがゴロゴロ転がって
いたのかもしれないなぁ。
私は元来の記憶力が弱いためか、
子供の頃の記憶があんまりなし。
あるといえば「怖かった」か「しんどかった」
「イヤだった」が殆どだ。
「この男の子も今日の記憶なんて残ってないんだろうなぁ」
と、思って見てたけど
逆に言えば、これくらいのワクワクは子供時代には
数え切れないくらい沢山あるんだろうなぁ。
この程度のワクワクが一生残るような人生じゃ
いけないんだよ、きっと。
そして、彼もそのうち、ボタンに指をセットしなくなる日がくる。
それも、自然の摂理。
でもそれって、どんなきっかけなんだろう?
人の目を気にしだしてかな?
ある日突然、まったく興味がなくなるのかな?
そして、それは「大人になった」て捉えられ方を
するのかな?
『いつから私はボタンを押すことに
こだわらなくなったのだろう?』
どれだけ思い出そうとしても、思い出せないんだけど
取り敢えずそれが「大人になった」ってこと
なんだろうなぁ~。
本当に“取り敢えず”なんだけど。
と、1駅乗り過ごした帰り道
歩きながら考えていました。
手口が相当荒っぽく、歩道にバイクを乗り上げて
被害者を引きずって大怪我させる、なんてことが
多発し、夕方過ぎるとお巡りさんやパトカーを
しょっちゅう見掛けます。
仕事帰り、いつもは徒歩なのですが
こんな状況に周囲から「帰りだけでもバスに乗れ」と
散々言われているため、最近ではバスで帰宅する日もあります。
仕事終わりでポーっとしていると自分の下車予定地に気付かず、
「降りますボタン」を押し忘れてしまうことが
たまぁ~にあるもので、二つ手前位から「押さなくてわっ!」と
心構えをしたりします。
つい先日もそんな感じで乗車していたところ
小さな子供連れの方が途中から乗車されました。
幼稚園くらいの男の子だったのですが、
彼は座席に座るや否や、ボタンに人差し指をセットし
「いつでもスタンバイOK」状態に入りました。
彼はお母さんの顔を真剣な、キラキラした瞳で見つめ
そのGOサインをひたすら待っています。
お母さんは「まだよ、まだよ」と
たしなめ続けています。
そういえば、子供の頃そうだったなぁ~。
あのボタンが押したくて押したくて仕方がなかった。
誰かに先に押されちゃえば、二度とはピンポーンと
鳴ってはくれないボタン。
チャンスは1度しかない。
誰よりも早く押さなければいけない。
たまに、子供同士が乗り合わせると
そりゃもう、戦いです。天下分け目です。
関が原のデジャブです。
この際、目的地が同じかどうかなんて
重要はありません(いや、重要だ)
全神経を指先に集中させ、ひたすら
母が頷くその時を待ちわびる、
(ある意味)神風精神です。
一番前の席で姿勢を正し、お母さんの合図を待つ
男の子を懐かしく、微笑ましく眺めながら考えていました。
どうして、子供にとってこのボタンは
そんなに重要なことなんだろう?
明日バスに乗れば又チャンスは廻ってくるのに、
どうして今日の・今この時のボタンに
こんなに熱くなるんだろう?
子供にとって『今』がその人生の全てなんだろうなぁ。
大人達は、知っている。
子供には明日があってその先も無限にあって
それが現実であり当たり前のことだということを。
でも子供の時、大人達が口にする「未来」ほど
当てにならない、予想もつかない漠然としたものは
他になかったかもしれない。
『今』しかないから夢中になれて
『今』しかないから逃すわけにいかない
子供の目の前には、そんなチャンスがゴロゴロ転がって
いたのかもしれないなぁ。
私は元来の記憶力が弱いためか、
子供の頃の記憶があんまりなし。
あるといえば「怖かった」か「しんどかった」
「イヤだった」が殆どだ。
「この男の子も今日の記憶なんて残ってないんだろうなぁ」
と、思って見てたけど
逆に言えば、これくらいのワクワクは子供時代には
数え切れないくらい沢山あるんだろうなぁ。
この程度のワクワクが一生残るような人生じゃ
いけないんだよ、きっと。
そして、彼もそのうち、ボタンに指をセットしなくなる日がくる。
それも、自然の摂理。
でもそれって、どんなきっかけなんだろう?
人の目を気にしだしてかな?
ある日突然、まったく興味がなくなるのかな?
そして、それは「大人になった」て捉えられ方を
するのかな?
『いつから私はボタンを押すことに
こだわらなくなったのだろう?』
どれだけ思い出そうとしても、思い出せないんだけど
取り敢えずそれが「大人になった」ってこと
なんだろうなぁ~。
本当に“取り敢えず”なんだけど。
と、1駅乗り過ごした帰り道
歩きながら考えていました。
コメント
思わず「いい話だ…」と思ったのに、最後の最後で『乗り過ごしてんやーんと』ツッコんでしまって、負けた気分です。(笑)
関西人の習性でしょうか、
話にオチをつけるのがある種
脅迫観念となっとりまし。
いやこれマジで、DNAに乗っかとります。
事実なんすけどね
(やっぱり乗り過ごしとんのんかーいっ)